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松阪簡易裁判所 昭和33年(ろ)73号 判決

被告人 森茂

昭三・八・七生 会社々長

主文

被告人は無罪

理由

本件公訴事実は「被告人は、法令に定められた運転の資格を持ち、自動車の運転に従事するものであるが、昭和三十三年六月九日午後六時頃、自家用小型貨物自動車を運転して伊勢市から松阪市に向うため時速三十粁位で度会郡小俣町地内国道二十三号線路上左側を北進中、前方向つて道路右側に自動三輪車一台が前向に駐車しており、従つて、その背後は死角となつて見透し困難な状況にあつたが、凡そ斯る場合該自動三輪車の傍を通過して北進しようとする運転者としては、見透し困難な三輪車の背後から進路上に進出するやも知れぬ幼児等のあることを考慮し、これらとの衝突等の事故を未然に防止するため前方に対する注視を厳にするは勿論万一の場合は直ちに急停車し得る速度まで減速徐行して運転通過する業務上の注意義務があるに拘らず、之を怠り、時速三十粁位のまま漫然通過しようとしたため、折から被告人の運転する自動車の進行に気付かず、右三輪車の背後より路上に走り出た大田寿子(八歳)を車前三米余の至近距離で発見し、急停車の措置を執つたが高速のためスリツプして及ばず、車体右前部バンパー附近を同女に衝突路上に転倒させ、因て同女に対し療養約六ヶ月間を要する左右大腿骨々折の傷害を負わせたものである」というのである。

検証調書、実況見分調書、証人大田寿子、小沢八郎各尋問調書、司法警察員に対する小沢八郎供述調書、検察官並司法警察員に対する被告人の各供述調書、大田寿子の診断書を綜合すると、被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和三十三年六月九日午後六時頃、自家用小型貨物自動車を運転し時速二十五粁乃至三十粁で度会郡小俣町地内国道を北進し、同所五、四八一番地、金谷誠二方前附近に差しかかつたとき、道路の右側から左側え横断すべく走り出た大田寿子(八歳)に衝突し、同人を路上に押し倒し、因て療養六ヶ月を要する左右大腿骨々折の傷害を負わせたことが認められる。

それでは、右事故は、被告人の過失によるものであるかどうかを検討しなければならない。前掲証拠によると、本件事故現場道路は幅員四・八米、アスフアルトで舖装せられ、事故地点の北方百米、南方二百米の間は直線で見透し十分であるが、たまたま事故地点に自動三輪車一台が南向に駐車していたため右側の見透しを妨げており、右三輪車の左側に残す道路の幅員は二・九七米であつたこと。被告人は、先行の自動三輪車から七・八米後れて本現場に差しかゝり、右駐車中の三輪車を認めて警笛を吹鳴し、その左側を通り抜けようとしたとき、突然斜右前方から太田寿子が走り出てくるのを約四・六米位(自動車前端から被害者までの三米余)の距離で発見し、急停車の措置を執つたが及ばず、車体はそのまゝスリツプして四米位進み、停止した地点で道路を七分通りまで横断した被害者に接触し、これを路上に転倒せしめたこと。被害者は、その時道路東側から西側に居る友達の所え行こうとして足早に道路を横断しかけたが、南方から自動三輪車が通行してきたのを見て一旦立ちどまり、自動三輪車の通過を待つてその後に続いていた被告人の自動車には気付かず、直ちに道路を横断すべく走り出したもので、一旦立ち止つた箇所は、駐車中の三輪車の五米位後方で、道路の端から一・五米の所であつて、被害者は、その位置から更に二・五米位進んだ所で右自動車に接触したものであること。被告人の自動車は、道路中央よりも左側を通行しており、運転台は車体の右側にあつたから被害者を見た位置は道路中央か、或は中央より稍左側寄りであつたこと、駐車中の自動三輪車(荷台には木箱が積んである)が見透しを妨げていたので、被告人の運転席から被害者の方を見る場合に、被害者が道路を横断すべく路上に出てくるまで及び路上に出て一旦立ち止まり通行の三輪車を見送つている姿をその十米以上離れた手前で発見することは困難であるが、十米以内に近づけばこれを認めることができ七・五米(車体の前端から五・九米)の地点では完全に認め得られたこと、然るに、被告人は、被害者の手前約四・六米(車体の前端から三米余)の地点において始めて発見したと述べていること。右事故現場は、車馬の通行頻繁であるが、その時は北から南に対面してくる車馬及び人の姿はなく、たゞ被害者が駐車中の三輪車の後方に居ただけであること。そのように駐車中の三輪車の直ぐ後方の車体の蔭に隠れた部分の見透しは困難であるが、進路を見透す場合においては、たとえ被害者の十五米手前から見たとしても、三輪車の後方一帯が見透しできない訳ではなく、三輪車から少し(十米位)後方箇所から先の見透しはできて対面してくる車馬があるときはこれを見透し得られるばかりでなく、前進するに従つて漸次三輪車の蔭に当る部分も視界に入る状況にあることが各認められる。

そこで、このような場合の自動車運転者の注意義務を考えてみると、凡そ自動車運転の業務に従事する者は、常に前方を注視し、若し前方に障害物があつて見透しを妨げ、進路の安全を確認できないときは警笛を吹鳴して障害物の蔭にある通行者に注意を与えるばかりでなく、何時でも停車のできる程度に徐行し、不意に路上に飛び出してくる者があるときは、遅滞なく急停車の措置をとるか、ハンドルを切つてこれを避けるようにし、以て事故の発生を未然に防止すべき義務あること勿論である。しかしながら注意義務の範囲を徒らに拡張して運転者に重い負担を課し、相当の注意を用いても尚結果の発生が予見できないような場合にも事故の責任を負わせることは相当でない。本件の場合を見ると、進路の右側に駐車中の自動三輪車があつて、その蔭に当る部分は見透しできないとはいえ、その後方進路の見透しは全然できない訳ではなく、対面してくる車馬や歩行者があるときは見透しできたのであるから、このような場合には、警笛を吹鳴して三輪車の蔭にある通行者に注意を与えることは当然(被告人はこれを実行している)であるが、何時でも停車できる程度に徐行する義務があるとは考えられないのである。そうなると、若し三輪車の蔭から路上に飛び出してくる者があるとき、徐行していたら急停車して事故の発生を免れたのに、徐行していなかつたため事故の発生を見ることもあり得るが、それは強ち本件のような三輪車駐車の場合に限らず、一般に路上とか、道路に面する家の出入口でも同様に若干の危険をはらんでいるのであつて、路上にある三輪車等の背後はその危険が特に濃厚であるとはいえない。元来交通頻繁な道路を横断するに当つて左右の見境いもなく走り出すような無謀な行動には出ないのが常識である。従つてそのような事態が常時起る訳ではない。異常なまれにしか起らない事態に備えて常時徐行しておれば安全の点では缺けるところはないとしても、それでは自動車の効用は半減され、正常な経済活動が阻害される結果となる。そこで一般に障害物の蔭から道路に向つて人が飛び出してくるかも知れないという蓋然性の強弱が問題なのであつて、その蓋然性の強い場合には徐行の必要があり、反対にその蓋然性が弱い場合には徐行の必要性も薄弱になると一応考える。例えば、学校の前、子供のよく集る場所等を通行する場合とか、路上におる幼児の行動が予測し難い場合とか、その他一般に危険が予見できる場合には当然徐行しなければならないであろう。けれども前掲証拠によると、本件現場は十字路ではなく人通りは尠く、子供の集る場所でもなく、幼児が飛び出してくるかも知れないという一般的な状況は認められないのであるから徐行しなかつたことを責める訳にはいかないように思う。しかも時速二十五粁乃至三十粁というのは制限以下の速度であつて、右現場の状況から見て過大とは考えられないのである。次に注視義務の過怠はどうかというと、被告人は、被害者の手前四・六米のとき始めて被害者に気付いたのであるが、検証の結果によると、注視可能距離は七・五米であるからその間多少発見の遅れたことが認められない訳ではない(尤も時間的には三分の一秒間位か)。しかし発見の遅れたことが本件事故の原因になつているかというと、必ずしもそうとはいえない。即ち被告人は、被害者をその手前四・六米の地点で認めたとき、被害者は道路を横断すべくスタートを起した時である。若し七・五米手前の地点でこれを発見しその時急停車の措置を執つたとしたら十分避け得られたであろうけれども七・五米手前の地点で見た場合には被害者は、まだ立ち止つて自動三輪車の通過を待つていたのであるから急停車の措置を必要とする状況であつたと断定できないのであり、被害者がスタートを起した時に始めて危険性が外部に現われ、その時に急停車の必要が生じたものとすれば、被害者の発見が若干遅延したことと、本件事故との間の因果関係はない事になるからである。次に、被告人が被害者を発見してから執つた措置に過誤はなかつたというと、被告人は、発見と同時に急停車の措置を執つたが及ばず、車体はその地点から約四米スリツプして停止し、その停止の瞬間被害者に追突したというのであるが、被害者との距離、角度等から考えてハンドルを右又は左に切つて避け得られたとは思えないから急停車以外に途なく、その停止距離からみて遅滞なくその措置が執られたものと認められるので、被告人の執つた右措置は不当と言い難い。してみると、本件事故は被告人にとつて不可抗力という外なく、結局本件事故は被害者の過失に基因するもので、交通頻繁な地域に住む者は、道路を横断しようとするときは、左右をよく注視し、安全を確認の上なすべきで、自動車が通過しても後続の自動車がないかどうかを確めるのは当然の事であるが、被害者は道路を横断しようとしたとき自動三輪車が進行してきたので一旦立ち止つて三輪車の通過を待つたが、その時もう一度左方を見たならば、後続の自動車が目前に来ているのを認め得たのに、不注意によつてこれに気付かず走り出した点に事故の原因があり、他に過失を発見することができない。

以上のとおり、本件は、被告人の過失を認めるに足りる証拠がないから、刑事訴訟法第三百三十六条により無罪を言渡す。

(裁判官 中里俊一)

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